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コロナを正しく恐れるということ

生活 社会

コロナの影響が半年も続くとは最初は誰も思わなかったでしょう。でもすでに日常生活や仕事、ひいては全世界の経済に影響有りまくりですね。

そろそろいろんな説や議論に、耳を傾けることすら億劫になってきたところですが、少し前に西條剛央博士がダイヤモンド・オンラインで執筆したアーティクル読んで腹落ちし、色々と気づかせてくれたので書いておこうと思います。

コロナはただの風邪という言い回し

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日本人に限らず、いまだわからないことだらけの感染症に対し、全く気にならない人は居ないと思います。

そして色んな理由、例えば病理学的にいろんな数値で比較した結果とか、漠然と恐れすぎてやんでしまった人を元気づけるとかで、有象無象の解説やデマなどが交錯しています。
私の周囲で聞いたり見たりしたフレーズとして、ただの風邪という表現が結構多かったと感じますが、これほどいい加減な表現は無いですよね。

その理由は、風邪という病気をひとくくりにできないからです。

風邪は万病の元といって恐れられていたのは、重症化すると命取りににもなるということですから、コロナも同じですが、「ただの」風邪と一緒にしてはまずいでしょう。コロナを正しく恐れるということが必要だと彼は説いています。

コロナを正しく恐れるとは

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西條氏は本質行動学という学問を推進されていますが、構造構成主義という物事の本質を捉えるための学問に支えられています。
この考え方では、コロナに限らず未知のウイルスにどう立ち向かっていくのかという課題が発生した時に、そもそも本質から外れたところでいくら議論しても無駄になるので、なにが本質なのかをまず特定するべきということです。

ここで彼が式に表したのは「恐れの公式」で、簡単に表現すると、

恐れ = 実害 × 予測不可能性 × 制御不可能性

というような関数で表せるそうです。

単純に掛け算で表せるかどうかは別として、これを見た時にはハッとしました。

この式を理解してあたれば、実害が少なければ、恐れ全体が少なくなるというのは、皆なんとなく直感で理解できることかと思います。しかし死者何名とかの実数を断片的に、そして繰り返し報道されたことによって、自粛警察みたいな世論がはびこってしまったわけで、人災だとも揶揄されているわけです。構造化と大衆の理解を促すような報道をしてほしかったですね。

予測可能性ではなく、予測可能性というところは勉強になります。未知のウイルスであることから、今まで蓄積した知見が活かせないところはこの予測不可能性の大きな部分だと思います。

制御不可能性は、ワクチンや治療薬が存在していないことなどがあたります。

整理(構造化)してコロナに立ち向かう

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マスコミが報じている情報で、私が一番聞くのが嫌な情報はPCRの陽性者数ですね。これは上の公式の「実害」の部分に関わりますが、本当は死者数や重篤者数、医療機関の対応可能指数などを、総合的に噛み砕いて「恐怖を煽らないように」伝えてほしいところです。

予測については、症状や傾向が次第に明らかになってきたところで、客観的な仮説を立てて行動すれば、不可能だった予測が可能に寄っていくということです。

そもそも前例の「無い」ウイルスについては、記録も何も無いわけですから、最初はどんな予測をしたとしてもそれは精度は高くないか的外れかになってしまうでしょう。この状態も不安や恐怖を助長させるんでしょうね。

制御については、全世界の国が巨額の資金をつぎ込んで対策に集中していて、すでにいくつかの朗報も聞こえてきています。

専門家は過去のことに詳しい

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コロナの報道や解説には、いわゆる専門家という人がたくさん登場しています。まことしやかに理論を説明してくれるのはありがたいのですが、ここには実は落とし穴が有ります。

過去の事象を元にした学問や技術などに詳しい人を専門家としている以上、未来の予測や、それこそ未曾有=今までに予測すらできなかった事についての絶対的な答案は持ち合わせていません。株の専門家が相場を100%的中させるのが無理なのは、わかりやすい例かも知れません。

市民としてできることとしては、皆で英知を合わせて最善を尽くしながら、少なくとも的外れな事をしないとか、要らぬ風評被害を生むような事を人として慎むという方向に向かうべきでしょうね。そもそもコロナでなにが起こっているのかの構造の本質に目を向けることが必要です。

これから未曾有の危機をどうやって乗り越えていくのかを考えると、科学の本質に基づいたマネジメントが必要だと気が付かせてくれる寄稿でした。