経営も生活もじゃまするものではない【SDGsとDX】
先日ある中学校の横を通りかかったら、外壁に見慣れたマークが並んでました。SDGsのマーク達がずらっと。
数年前にSDGsという単語を聞いて、あぁそんな時代になったんだなと他人事のように思っていたですが、結構身近になってきましたね。
社会と会社の向いていく方向
時代とともに人々の生活、その集合体としての社会全体の向いていく目的とその中身が少しずつ変わってきています。
日本も戦後復興期から続いたイケイケムードの波で、大量にモノを作って売りさばき、その結果資源が減ろうと、公害をまきちらそうとお構いなしの時代がありました。
その結果温暖化や、呼吸器系疾患・水質汚濁による健康被害などがあからさまになり、その都度対策が積み重なってきましたが、あっという間に地球規模の影響が明らかになるに至り、情報がタイムリーに共有される時代になったのです。
回り回って自分達の生活にまで影響が出だした場面にも遭遇するようになってきた感覚もあります。
経済活動を回す主役は会社、つまり企業の集合体ですが、会社に今迫られている事として、SDGsのような世界的な共通のものさしや、DXのような効率化を支えるツールの有効活用などがあります。
いかに無駄を省き、要らない物を排出せずに物を作って流していくかのすべての場面で、頭の使い方を変えなければならなくなったのですね。
そもそもの目的をどこに置くか
国や地域によって考え方とやり方が全然違うと思いますが、いま日本の企業が最優先で考えるべきは継続性なのではないかと思います。
国内マーケットだけ見れば、人口は増えないので市場全体のサイズは拡大せず、人口比例の消費財は製品を作っても今以上には売れず、ごみが増えることになるだけです。そうこうしているうちにSDGsは法律なわけではないんですが、それに反するものは論外とされてしまうものを作るわけにも行かなくなりました。
以前に比べれば、世界で目指す人間社会のあり方について共有されるスピードが格段に上がってますから、国単位・企業単位で考え実施していることと、実際の生活現場や職場で起こっていることが合致していることが理想だと思われます。
でも実際は、企業が大真面目にその枠組みだけを企業統治という形で、現場を取り締まるツールにしてしまうようになってしまうと、せっかくの現場力が生かされないことも起こっています。とくに真面目なサラリーマンが多い日本の現場では、上層の命令を愚直に実施して、時には意訳してしまって、目的を見失って価値を生めなくなってしまうからです。
なので、経営者としては規模を大きくすることは必ずしも必須とはしない上で、現場を支える社員も管理者も経営者も、信頼関係を保ちながら同じ方向に向かって、サスティナブルであるということを目的にすればいいと思います。
価値を創造するためには
人がこれからも生き延びていくためには、何かの価値を創りながら持続することを目的にすれば良いとは思うんですが、では価値はどう創り出すか。これ、永遠の課題ですよね。
個人や現場レベルの積み重ねが社会や国を作っていきますが、人の流れや経済が激動しまくっている今だからこそ、各自がちょっとの工夫をして価値を生む時なんじゃないかと感じます。
前に森政弘著「非真面目」のすすめという本を読んだことがあります。要は頭をほぐして発想するようなクセをつければ、新しい価値を想像しやすすくなるという、とても興味深い考え方を説いてくれています。
似たような単語でスカンクワークというのもあります。勤務時間中に、わざとそれ以外のことをやっても良い時間を会社が設けるというものです。今の時代だからこそ、いかに会社が個人の創造性を発揮する場面を作ってあげられるかが、企業価値にも本人たちの糧にもなっていくんだと思います。
どうせDXという単語もそのうち、息をするのと同じくらい当たり前になるでしょうし、情報は時間も場所もシームレスになり、人間のチカラ仕事は激減していくので、仕事と言われる時間は短くなっていくハズなんですよね。
前にも少々書いたんですが、創り出すべきは新しい発想と、それもとにして関係する人や企業が共に作り上げていくプロセスそのものの価値なんだと思えてなりません。
遊んでないで仕事しろというフレーズが、もしかしたら、仕事ばっかりしてないで遊べと言われる時代になるかも知れません。あ、もうなってる?