人と会う、という暴力性
在宅勤務の話題がまだまだ収まらないこの頃ですが、気になる単語が飛び込んできました。
人と会うことに暴力性がある、というのです。
会社という社会で人に会うこと
リモートワークの逆、というと普通の出勤ワーク、ですかね。なんか、「昔は★★★ワークしてたんだよね」みたいな新語ができたりして。
あまりに一般的すぎてなんと言って良いかわかりませんが、今まで疑問にも思わなかった普通に出社して勤務することは、それなりの人数がいる場所に毎日集まって会いまくるわけですから、これを暴力といわれるとちょっとピンときませんね。
前に、在宅ワークが主でたまにオフィスに出るのは特別な場面になるなんて書きましたが、それもどちらかと言うとオフィスで会えることには、より高い価値があるという考えで、なにか重要な事を決めるとか、人の心に深く影響するような内容の場合はやっぱり会って話をする必要があるんじゃないかということで理解していました。
そこでこの暴力という言葉の意味を改めて調べてみると、筑波大の斎藤環教授が説かれた内容とのことです。
一人で誰とも関わらないという状態から抜け出し、誰かに会う、人の輪に入るということ自体、どんなに気遣いをしたところで人に関わること自体暴力と表現できると。
なるほど、気が重いなぁとか、気を遣うとかいうことは、たしかに自分にとってプレッシャーにもなるし、受ける側だってそうでしょう。
ところが、この暴力を一概に悪いものだと決めつけられるということでもなく、実際に会って人と関わった方が物事が早く決まるということも、実際コロナの自粛が引き金となって、気がついたりしました。
そして人と会って時間が過ぎた後には、プレッシャーが解けたことで充実感が感じられたり、具体的に得られたものが有ったりと、むしろ良いものが残ることも多い。
うむ、なんか暴力性という言葉で説明されるのって、すごくこの状況にしっくり来ると思います。
人の個性と柔軟性
まぁみんながみんな、会うこと自体を暴力ととらえるかと言えばそうでもないでしょう。
人の数だけ個性というものは有りますから、それぞれひとりひとりが少しずつ人々が居る社会に合わせる柔軟性というのが、人生で試されてるんだと思っておけば良いかも知れません。
そう考えるとやはり、会社のオフィス「も」、必要なときには自由に使えるように準備されている上でのリモートワークが基本で良いんじゃないか、と思えるところです。会社としては社員に選択肢を広く持たせるだけで、随分と社員満足度は上がると思うんです。
普通に出社したり人に会うことを、これだけ改めて関係性について考えてみたのは実際初めてですね。
ゆくゆくは、暴力とは正反対の感情を持てるような集合や再会ができる日を、楽しみにしたいと思います。